はじめまして。
音楽家・根木マリサです。
ここでは、音楽家・根木マリサの誕生秘話をお話していきたいと思います。
誕生!
1987年、東京で生まれ、すぐに、つくば市に引っ越してきました。
今でこそ、住宅地も多く、学校・商業施設も多いですが、
当時は、キジが、空き地をあるき、蛇が公園にいて、夜になると真っ暗な、
本当に、ド田舎だったようです。
せっかちな母につれられて、まだ2歳だったのに、ヤマハの3歳からスタートするクラスに入り、エレクトーンと歌、ピアノを習い始めました。
そして、やはりせっかちな母につれられて、水泳教室にも通うようになりました。
幼稚園
現在も、運営されている「アカデミア幼稚園」に通っていました。
ここでは、鼓笛隊や、バイオリン、トラペットなどを、習うことができて、
その時間が、とても楽しかったことを覚えています。
今でも、覚えているのは、「長くつをはいた猫」を題材にした劇を、市民ホールで発表した時のことです。
何を話したかは、覚えていないのですが、
コンサートホールのステージに立ち、主役の猫を演じた時、最高に興奮したことだけは覚えています。
今、思えば、この時、私は、ステージに立つ面白さを知ったのかもしれません・・・・。
小学校
小学生に入ると、水泳はやめてしまいましたが、水泳教室の先生が非常にカッコよかったせいなのか、幼い頃の私は、とっても頑張って練習していました。
なんと、小学1年生になる前までに、
クロール・背泳ぎ・平泳ぎ・バタフライまでの4つの泳法をマスターし、1時間を延々、泳ぎ続けるクラスまで昇格していたのです。
この水泳を頑張ったことは、実は大人になってから、
とても重要な意味を持つようになります。
音楽の話にいきましょう。
小学生になると、すでにピアノなしでは、語れない生活に入っていきます。
まず、朝の会などで歌う「みんなの歌」
(この本は今はないのかな・・・・出典)
毎朝の伴奏者として、教室にあるオルガンを弾いていました。
根木マリサ = ピアノが上手な女の子
だったのですね。
そして、私も、そのキャラが崩れないよう、必死で練習していました。
運良く、自分より、指が早く回るお友達がいなかったのは、幸せだったのかどうなのか・・・・。同じ小学校に、上原ひろみのような人がいなくて、ラッキーでした。
小学2年生の頃には、作曲の指導クラスを持つ、馬場法子先生に出会います。
ここで大きく、私の音楽人生が動き出すことになりました。
馬場先生は、当時、東京芸大作曲科の博士課程(?)の方で、とても美しい先生でした。
決して怒ることはなく、私が作ったメロディーの続きを作るのに迷うと、すぐに「こんなのはどうかな?」といって、素敵なメロディーをいくつも提示してくれました。
「あぁ〜こんな人になりたい!」と、思うのも当然!
本当に、憧れの先生でした。
しかし、先生との出会いは長くは続きませんでした。
先生は、フランスへの留学が決まり、旅立ってしましいました。
数年後には、フランスの国の委託で、曲を書いていたそうなので、すごい先生に出会ったもんだ。と、当時びっくりしたのを覚えています。
小学4年生の頃、ヤマハ音楽教室に、クリスマスのオリジナルソングを書いてフィンランドに行こう!という応募企画がありました。
ピアノを習っていた先生が、やってみたら?と勧めてくださり、軽い気持ちで作曲。
すると、全国代表曲に選ばれ、フィンランドに行くことになりました。
この時、テレビ朝日「オリジナルコンサート」にも出演。
CDのレコーディングも行いました。
しかし、小学生高学年ぐらいになると、気がつくのですが、
クラシックが弾けても、
人気者になれない!!!?
ということなのです。
運良く、ヤマハ音楽教室では、即興演奏のやり方を教えてくれるコースがありました。
そこで、私は、即興演奏のやり方をマスターし、
学校の休み時間には、クラシックを演奏するのではなく、友達にいくつか音を選んでもらい、その数個の音を組み合わせて、即興演奏をして、人気者の座を守っていました。
そんな私をみた、小学6年生の頃の先生が、
私のオリジナル曲でクラス全員で、合奏をしよう!という提案をしてくれました。
本当に、ありがたい話です。
とても、楽しい小学生時代が、終わりました。
中学校
中学生になると、音楽の授業も美術との選択になり、
ピアノを弾けることは、あまり人気者になれる要因にはなりません。
入学したての頃に、部活に入ってみたくて、友人の真似をして、バスケ部に入部届けを出しました。
しかし、突き指の危険性があることと、運動神経の悪さから、2週間で退部・・・・。
今では、笑い話ですが、ピアノを弾きたいから、指は守りたいけど、でも、友達が作りたくて、部活はやりたいという矛盾を抱えていました。
なので、部活に行っても、ボールが怖くて!笑
バスケ部は、向いていませんでした。
ちなみに、走るのも苦手なので、2キロ走ることさえできませんでした。
その後、ヤマハ音楽教室での、作曲活動に、のめり込みました。
小学生の途中から、ヤマハ音楽教室は、地元の教室から、目黒にあるヤマハ音楽院へと、変更となり、先生や周りのすばらしい友人に恵まれました。
即興演奏をしに、地方に行ったり、大きなコンサートホールで演奏する機会にも恵まれました。
この頃から、東京芸術大学に行って、作曲家になりたい!と、思うようになるのも、
周りの影響から考えて、自然な流れでした。
しかし、周りは、本当に優秀なピアニストの卵たちが多く、
ピアノの演奏技術は、彼女たちには、まったく追いつくことができませんでした。
先生から怒られることも多く、
クラシックピアノの演奏は、
どんどん苦手・嫌い
になって行きました。
高校
高校は、土浦第一高等学校に入学しました。
当時は、音楽業界へ進むか、それとも生物の研究者になるか、
真剣に悩んでいました。
だって、音楽業界で、作曲家として生きていける人なんて、
どう考えても、一部の人だけだと思いました。
しかし!!!
高校一年生の時に、人生を決定する事件が起きます。
数学で赤点を取り、補修を受けなくてはならない事態になりました。
その日は、ピアノのレッスンの日なので、速攻、学校から帰宅しなくてはなりません。
しかし、補修を受けなくてはならない・・・・。
そこで私は、高らかに宣言してしまいました。
「音楽大学に行くので、
試験科目に数学はありません!」
と・・・・。
今でこそ思います。音楽は、数学です。
楽器構造も、音響学も、すべて数学をベースに論じられています。
なので、音楽家に数学は必要です!!
しかし、確かに、音楽大学受験科目に、数学は、(選択しなければ)ありません。
ということで、この発言を機に、私は、音楽大学に進学することになりました。
大学
大学は、東京芸術大学音楽学部楽理科に入学しました。
楽理科というのは、音楽の理論と書く、その名の通り、
音楽を理論的に、研究する科です。
小学生の頃に、フィンランドへ行った時、たくさんの外国の方々に囲まれながら、ピアノを演奏する機会がありました。
その時は、ベートヴェンか、モーツァルトか、
なにかクラシックの曲を演奏したのですが、
みんなに、日本の音楽が聴きたい!と、
リクエストされた時、
私は、「さくらさくら」しか演奏することができませんでした。
なので、いつか、日本音楽(邦楽)を勉強したいと思っていました。
そんな、日本のトップクラスの邦楽奏者に会い、
勉強できるのが、東京芸術大学だったのです。
いまでも、ここで出会った演奏家とともに、音楽を作り出しています。
大学では、作曲の理論、実践。そして、邦楽の勉強。
さらに、コンサート制作についての勉強をしました。
学内公募で、100人の同級生や先輩・後輩を集めて、一つの大きなコンサートを作りました。
失った友情もあったり、いろんな経験がありましたが、
「国撃たれて響きあり」
という演目の成功は、私にとって、大きな体験でした。
もう一つ、とっても大きな出会いがありました。
当時、美術学部に在籍していた秦俊子監督に会います。
彼女は、人形アニメーション作家さんでした。
彼女の作品に、音楽をつける作曲活動を、スタートしました。
就職
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